2014年9月7日礼拝
説教:「真のお父様御来日50周年を迎えるために」
説教者:松藤俊之教会長
み言葉訓読:『使徒行伝』より (4/29-35)
主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。
信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有していた。使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。
『イエス様の生涯と愛』
百二十人の門徒がマルコの屋上の間に集まり、イエス様が生前「聖;霊を送ってあげよう」と言われたその約束を心に信じ、一つになって祈ることがなかったら、今日キリスト教は、世界的な宗教にはなれなかったことでしょう。
そのとき身を伏して祈った百二十人の門徒には、恐れの心がありませんでした。自分の威信や体面、そして家庭もすべて忘れ、ひたすら主の約束がある時、ある場所に現れることを信じて百二十人の門徒が一つとなって祈ったとき、四千年間、天地の間で遮っていた死亡の圏を打ち破って、聖霊が地上に臨むようになったのです。
これは偶然なことではありませんでした。このことによって人間を再び出産してあげることのできる新しい道が切り開かれたのですが、この一つの事実は誰によって起きたのでしょうか。これは百二十人の門徒が終始一貫した心、終始一貫した誠意、終始一貫した供え物の精神によって、父のみ旨、神様を見つめた切実なその心によって起きたのです。このように地に対して摂理できなかった聖霊の役事が、初めて新しい歴史的な出発をし得たことを知らなければなりません。
百二十人の門徒は天地が震動し、炎のような舌が分かれる聖霊の役事を体恤するようになるとき、天に向かう切実な心に徹し、いかなる怨讐に対したとしても死を覚悟して行こうという心をもつようになったのです。ここに天によって力がさらに加えられると、その力はいかなる者が切ろうとしても切ることができなかったのです。このような力が土台になったがゆえに、彼らが語る言葉が天地を動かし得る能力を行使したということを知らなければなりません。
それならば当時、使徒たちは、どの程度まで一つになったのでしょうか。有無相通じるぐらいに一つになりました。彼らは、自分のものと相手のものとの区分がありませんでした。彼らは神様のみ旨を中心として、「私はあなたであり、あたなは私である」という一体の心情によって、二人が一つに十人が一つに団結したのです。ですから彼らは、誰かがある困難なことにぶつかるようになったときにも、それをある個人の困難としてほうっておいたのではなく、自分の困難として考えたのです。
このように兄弟の困難を自分の骨と肉、骨髄までしみ込む困難として感じるようになったとき、天も動いたのです。ですから皆さんも、お互いが自分のすべてを忘れ、ただ父のみ旨一つだけのためにいかなる犠牲が伴ったとしても、自分のすべてを捧げようという心、兄弟の困難を自分の困難として感じられる心の所有者にならなければならないことを心に銘じてください。